大学の先輩から”湖西線”についてご教示いただく

投稿日:2013年07月28日

立命館大学かつ元会社の先輩から湖西線の歴史について、下記の通りご教示いただく。改めてウォーキングの深さや歴史の重み等、一層の自己研鑽を感じた一日であった。

 

江若鉄道(こうじゃく)鉄道と湖西線

私はカッシー君の大学の先輩で「鉄道つたい歩き」の本にコメントを書いたことがある。先日新宿で飲む機会があり、この6月に湖西線(こせいせん)を歩いて来たと聞く。

「どこがよかったか?」と尋ねると「景色がよかった」という。そこで講釈が始まる。「お前な、歩けばよいというものではないんだよ、「よかった」「よかった」だけでは観光業者の片棒担ぎになるだけだ。そこで自分は何をしようとしたのか、したのかが大切で、それを書かないと読者は面白くないんだよ。他人の自慢話など誰もが聞きたくないからね。」と苦言を呈する。

私は近江八幡で生まれ、高校は彦根に通っていた。高校時代に滋賀県の周りの山を踏破した。東側は楽に出来たが、湖西の方は大変である。

たとえば比良山に登るには一旦大津に下がり、同じ位の距離を北上しなければならない。この鉄道運賃が当時は日本一高いと言われて、切符代がつらかった。

そもそも江若鉄道とはどんな鉄道だったのかというと1920年(大正9年)に大津と福井県若狭町間に鉄道敷設の免状を取り設立。10年かけて近江今津まで開通した。

その間51キロ。乗客が減り、1969年(昭和44年)廃止、国鉄に売却されて5年後に山科と近江塩津間で開業し、北陸本線と直結して関西と北陸を近づけた。

51キロという短い距離と50年という短い時間で鉄道は消えたけれども、もともと百年前には日本海と太平洋間に運河を作る構想もあったのだ。明治の始めの少しの間、若狭は滋賀県だったこともある。

比叡山延暦寺が大スポンサーだったとか、この沿線には三井寺、日吉(ひえ)神社、近江神宮から始まり高島に行くと近江聖人と言われた中江藤樹院がある。日本人の精神の塊がごろごろしている沿線なのだ。

景色だって山と湖の間に列車が走り、まるでスイスに来たような景色が続く。家までスイス風にしゃれた建築が目立つ。高島に行くと綺麗に整備された棚田が近江人の勤勉さを象徴するように残されている。

「琵琶湖周航の歌」の2番に「松は緑に砂白き 雄松が里の乙女子は 赤い椿の森陰に はかない恋に泣くとかや」という歌詞がある。

一方同じような歌に「我は海の子」というのがある。その3番の歌詞に「高く鼻つくいその香に 不断の花のかおりあり なぎさの松に吹く風を いみじき楽(がく)と我は聞く」

瀬戸内海の海辺に育った彼と淡海(あわうみ)に育った私とは、感じるところが全く違うのは、いかんともしがたいのかも知れない。

2013年7月25日

山田 正

 

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